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移民1世紀 第3部・新2世の闇と未来

第3回 ・ 日本出稼ぎ機によどみへ

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日本人男性が子供へ送った小包の送付状。「チョコレート20袋。キャンディ3袋・・」にどのような思いを込めたのか

 戦前、フィリピン最大の日本人コミュニティーがあったミンダナオ島ダバオ市。アバカ(マニラ麻)栽培に将来をかける農村出身の男たちが続々と入植し、邦人人口は最大で二万近くにまで膨らんだ。

 戦後約四十年を経た一九八○年代半ばごろから、人の流れはダバオ市から日本へと逆流し始める。主役は歌手、ダンサーなど「エンターテイナー」と呼ばれる若い女性。彼女たちの多くも農村部出身で、同島最大の送り出し拠点、ダバオから首都圏を経由して日本各地へ散っていった。

 ダバオ市郊外に住む元エンターテイナー、ローズさん=仮名、南スリガオ州出身=(39)もその一人だった。日本へ初めて渡ったのは八六年。薬剤師の国家試験に落ち将来に不安を抱いていた時、知人から「日本へ行けば稼げる」と聞かされた。「売春させられるよ」と周囲に止められもしたが、最後は「お金をためて商売を始めるための踏み台にする」と割り切った。

 日本へは八六年から九一年まで計四回行った。四回目の給与は月額千五百ドル。雇われの薬剤師では、決して手にすることのできない額だった。「続けていれば今ごろ家が建っていたのにね」と笑うローズさん。

 日本出稼ぎに続く転機は九一年九月に訪れた。比へ帰国する際、客だった日本人男性(44)=札幌市出身=が日本人の先妻との間に生まれた一人息子=当時六歳=を連れてダバオ市へ同行。「息子と一緒に観光したい」ということだったが、男性は自らの離婚証明書と婚約指輪をひそかに携えていた。到着当夜「結婚してほしい」といきなりプロポーズ。断ると、男性は一人息子と婚約指輪をローズさんの元に残したまま一人で日本へ帰っていった。

 男性が比へ戻ったのは三カ月後の同年十二月。首都圏からローズさんへ電話が入り、「マニラまで迎えに来てくれないとエベレスト山へ行って死ぬ。息子を頼む」。息子を「逆人質」にしてまで結婚を迫る熱意に押され、九二年一月ごろからダバオ市で男性との同せい生活が始まった。

 生活を始めてすぐに男性の本性が見えた。言葉が通じないためか、ことあるごとに手を上げられた。警察に通報することもしばしばで、「将来が恐くてどうしても結婚に踏み切れなかった」。同居していた男性の一人息子も「あの子がいるといつまでも関係を切れないような気がして、九五年ごろに日本へ帰してもらった」と言う。

 何度もがけっぷちまで行ってはよりを戻す、危うい生活にピリオドが打たれたのは九八年一月だった。既に九二年十月と九四年十月には長女ジュリちゃんと長男ケンジ君が誕生し、お腹の中には二女のマリアちゃんがいた。「子供に暴力をふるい始めたので逮捕してもらった。わいろを払って拘置所から出て、私たちには会わずに日本へ帰ったようです」

 半年後、帰国した男性から小さな小包が一つ届いた。住所は大阪市中央区日本橋。中身は「チョコレート二十袋(三千円)。キャンディー三袋(三百円)。ウルトラマンカード六箱(四千八百円)。ビスケット三袋(百円)」。受取人はローズさんではなくケンジ君だった。

 ローズさんは言う。「(暴力を振るわれた)ケンジは『パパ』と聞いただけでおびえていた。もしや毒が入っているのではないかと思い、野良犬に食べさせた後、子供たちに渡しました」。人の流れに乗って日本へ渡り、日本人との出会いを機に暗いよどみへはまりこんだローズさんと子供たち。「ウルトラマンカード」に込められた思いはもはや、届きようもなかった。(つづく)

(2003.9.10)

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